ゆとり教育的な子供たちについて

http://d.hatena.ne.jp/idiotape/20071010/1192003209

よくいわれることだが、最近の生徒は座らないとか、授業を聞かないとか、そういうこと。

そしてその状況をみて、こいつらは狂っていると大人が驚愕すること。

だけどその大人たちは、まったく記憶を喪失しているだけで、じゃあ何故自分たちが授業中席についておとなしく座っていたかといえば、それは寝るためでもあり、先生に殴られるのが怖いこともあり、目立ってはいけないという日本人特有の精神に拠るものでもあり、仕方なしに座っていたのは間違いないのである。

今も昔も、授業というものの尊さと意味を理解して、喜び勇んで座るなんて生徒は、高校までの間には、とても少ないはずだ。だいたい、クラス中の生徒が、先生、数学楽しい、もっと教えて、などと瞳をきらきらさせているという状況のほうが、おかしい。何か催眠術でも使っていると考えたほうが妥当である。

真面目に授業を聞く、そんな真面目さを忌み嫌うのも、ティーンエイジャー特有の照れくささのようなものがあり、公然と席を立つことがいけないということになっていなければ、席をたつだろうし、真面目でないと同世代に対してアピールしなければ、格好悪いと感じる子もあるだろう。昔から教科書をたてていれば寝ててもばれなかったとか、そういった類の小さな武勇伝は語られたものだし、そいつらが寝ないで歩いて立っていたとすれば、別に当時と大して様子は変わらないのではないだろうか。ただし、公然と席を立ってよい雰囲気が漂うことによって、昔は寝るなんて大胆なことは、したくてもできない、と言っていたような、”羊の群れ”層が、授業を聞かないのがフツウという環境であれば、そちらにシフトしてしまうので、学力も低下するし混沌は極まる。(だって、羊の群れが意外と勉強をしているから、授業中寝ていたやつはあせって追いつこうと努力したのだもの。)

では何が変わったのかというと、恐らくヒロミチお兄さんの言うとおり、一番変わったのは”親”で、その親によって”学校”が神経質になり、しかし依然として組織としての未熟さを露呈しているということだと思う。学校が変わらなければ、現場の教師に負担がかかり続けるのは当たり前の話だ。

私は学級崩壊の世代に限りなく近く、自己主張の強い(強すぎる?)コギャル世代なので、いわゆる生徒たちが学校に牙を向いた最も最近の世代といえると思う。集団で卒業式をボイコットしたり、授業をボイコットしたりしていた、あの世代だ。

あのとき我々の世代が言いたかったのは、教師は自己満足で授業をしているに過ぎず、生徒のことを本当にはみていない。学校は両親のことを見ているのであって、生徒の事は見ていない。といったことではなかったかなぁ。とおぼろげに考える。
また、度重なる教育制度の変更や指導要綱の変更で、先生たちも右往左往しており、思わず説明してしまった内容について、今年はやらないけど去年まではこういうのもやっていたよ、などとそうしたネタに触れるにつけ、”それは何故除外されたのか?”という解決されることの無い疑問を、センセイが解決することなしに生徒にひけらかし、疑問に思うことそのものを、自分で考えることを放棄してこちらに放り投げることについて、ひどくいらいらしたものである。(所詮お上の命令にはさからえない、ということらしい。)誰が何の権限があってそんなことをしているのか?

少し年が上下に離れた同世代の人たちと話せば、その教育内容の違いは明らかで、ただ単に実験のように、もしくは気分転換でくるくると変更が加えられ、それにもてあそばれているような気がしていた。そしてそんな”遊び”にうんざりしていた。教科書に書いてあることも度重なる編集によって間違いが続出しており、本当なのか嘘なのかわからないことが書いてあった、というのが感想で、基本情報としては良いが勉強したという気になるような内容ではなかったと思う。指導要綱の変更によってクラスの編成なども変わるとか、そういった話があったので、一度先生につかみかかりにいったことがあったが、担任の先生は黙ってうつむき、職員室は静まり、でも化学の先生が職員室の外で、過渡期だから。。。。と説明し、本当にすまないと思っている、といって謝ってくれた。誰も子供のいうことには真剣に耳を貸さない。学校なのに。この化学の先生みたいに特殊な人だけが、真面目に生徒の話を聞いて、この記事の先生と同じように、弱体化された学校という組織との間に板ばさみになり、心を痛めてくれたのだ。

教育とは何か。
一部の教師だけにこの問いを追わせるのではなく、学校という組織全体がこの哲学を追求する集団でなくてはならない。それ以外の集団は、学校とは呼べないのだ。子供たちは真剣な先生の話はきちんと聞くだろう。それは動物的な本能と、それに教育される喜びを味わいたいからだ。学校とはそのような享楽を提供する場ではなかったか。いつからサラリーマンのようにのっぺりとした顔をした教師が淡々とノルマをこなすように教壇に立ち、衛星中継やDVDの塾講師に負けてしまうような授業をするだけでお金がもらえるようになったのだ。そしていつから学校は、親の顔色さえ伺っていえれば黙ってお金が手に入る固定金額収入ビジネスと成り下がったのだ。

子供たちがおかしいのではない。夏目漱石先生の時代に万人に対する平等な教育制度が整備されて以来、進化することもなく、ただ形骸化し腐敗しきった教育現場というものがおかしく、それとの板ばさみになっている教師から今、悲鳴が上がっているのだ。