ぐうたら。


ギアがはずれる日、というのがある。
一切のインスピレーションが枯渇し、ものをしまうことすらできないのだ。
だから一日じゅうダラダラする。
なにをたべたいか、どうすれば料理ができるかということの組み立てすら出来なくなるので、 朝納豆ご飯、昼塩気の足りないぺペロンチーノ、夜はふりかけごはん、などという乱暴な献立になる。が別に全然不快でもない。いくらかの量の食器洗いと、2週間もためた洗濯物をやり遂げて、そのあとはぱったりと体も頭も動かないのである。そんな状態でぐうたらとした時間を愉しむ。お風呂にはいってじわーっとするとか、風呂上りの一杯でキューっとなるとか、ベッドに横たわって幸せ〜〜〜とトロけたり、というのを存分に、誰にも邪魔されず、思いゆくまで味わうのである。
たいがいベッドにいる。静かなほうがいい。誰かがいると億劫である。まったくの沈黙、あるいはひくくつけたテレビをドア越しに聞くくらいで、あとは環境音を聞きながらベッドでぬくぬくとする。ひたすらボンヤリしたり、ファッション誌をめくったり、文芸誌をパラパラやったり。そんなときこそ、普段は読み飛ばしてしまう箇所にすばらしい発見をしたりするものだ。脱水症状になるといけないので、気がつく範囲で水分を摂取する。同じ理由で倒れてはいけないので、最低限炭水化物を取るのである。 テレビをつけたとおもったら、ちょっとみて、番組の最後までみない。なにかを成し遂げるとか、なにかにつきあうとか、そういことに一切の関心がなくなるのである。気がついたときにむっくりと起き上がり、ちょうどよいころあいのフィギュアスケートの試合をながめて、運が良かった、と嘆息しながら落雁を食べる。

端から見たら非常に破滅的だろうし、何か深刻なことがあって、ショック状態なのではと疑われても仕方が無い。
しかし本人からすれば、それは突然おとずれたバッテリー切れのときであり、ギアがはいらないのであり、すべてを休ませる日なのである。
普段はすこしややこしいパズルゲームなどがすきでも、そのときばかりは究極的に単純なゲームを数時間ずっとやり続けたりするのである。

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私は意外にも、気ぃ使いぃである。

結婚していたとき、このような日を持つことは出来なかった。
もちろん元ダンナにも非があるのだが、やはり一日中一人きりで徹底的にダラダラする、ということの重要性を、自分でも軽んじていたように想う。
午前中だらだらしたから、もう大丈夫!とむりやり、動かないギアを一生懸命動かしてしまうのである。
そのうち、バッテリー自体が疲弊して、いくら充電しても充電されないようになってしまう。
そうすると、こうした帳尻あわせをきちんとしてこなかったツケがまわり、充電できないバッテリーのまま、うごけない体になってしまうのである。

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離婚するとき、年上の人々は、私に対して、”がんばりすぎたんじゃないの?”と声をかけた。

それはたぶん、離婚という事実に対して、リラックスしなよ、と勇気付けてくれる意味でかけてくれた言葉なのかもしれない、と今では思う。
あるいは、がんばりすぎちゃって、かわいそうに、とやさしく哀れんでくれる言葉だったのかもしれない。あるいは、がんばりすぎちゃったんだね、とねぎらってくれる言葉だったのかもしれない。

でも当時は私はひどいうつ状態(それでもピーク時よりはかなり回復していたのだが、やはり心の根幹部分の傷は癒えておらず、特に傷つけられること、責められることにたいして非常に神経質かつ、受け入れがたいほどの苦痛を感じていた。それはどちらかというと、結婚生活によるものというよりは、元上司の言われもなく人を責め続けるという理不尽さからもたらされた部分だったかもしれない。)だったので、人々のそういう、いわゆる”何気ない元気付けの(つもりの)言葉”でさえ、責められているようにしか思えなかった。

わたしががんばりすぎたからだめになったんじゃないの、としか聞こえなかったのだ。

(実際、そいういう意味も多分に含まれた言葉ではあるかと思うのだが。。。そうした意味が含まれていることさえ、わたしには耐え難いことだった。)

結婚した自分としての在り方、というのは、日々試行錯誤で、一般的に言われている家事と仕事の両立にしてもそうだし、両家の実家に対する立ち居振る舞いなど、それまで仕事や人間としてはある程度経験を積んだつもりが、とたんに赤ん坊のようにまったく経験も知識も無い、ゆえに自信の無い立場を与えられ、仕事を与えられたようなものであった。そういう状態で相手の助力を得られないというのは、まさに泥沼で犬掻きをするようなもので、途方もなく疲労感だけが募り、達成感のかけらも無い、ただ浮いているだけで精一杯の、息苦しいものであった。

がんばることの何が悪い、
あまりのこの言葉の乱暴さに耐えかねて、一人で悶々と悩んでいたとき、私はこうまで考えた。
二人の他人が暮らすのである。
もちろん元ダンナが一切の努力をしなかったにせよ、そうであればよりいっそう、がんばらねば一緒になど住めない。
二人のテンポだとか、生活形態というものは成し得ない、と思う。

別にわたしだってがむしゃらにがんばりたかったわけではない。
理想的には自然にそういったものができたらよかったと思う。
だけれど、全面的によりかかってくる元ダンナの重さを必死で支えながら、二人分の生活が破綻しないように保つのは、並大抵の努力では成り立たないのだ。
がんばらなかったら、なんだったというのか。
もっとはやくに逃げ出せばよかったのだろうか。
それとも、二人ともかびまみれになってでもいいから、てこでも動かなければよかったのだろうか。そんな状態はこっちがごめんである。
そんな苦行を経なければ築かれないものなのなら、わたしはさっさと下りる。そうして荒廃した生活を送るほうが、よほど私にとっては苦痛である。


結婚というのは、幸せのイメージに対してお互いが努力するという義務なのである。
それを片方が果たさなければ、結婚という状態は破綻する。それだけのことだ。

元ダンナはすでに、結婚と新居という二つの2大ライフイベントによって、燃え尽きたように呆けてしまっていたので、
しまいには、本人が、離婚直前に、
おまえががんばりすぎた
みたいなことを言ってしまい、後々まで私の苛烈な叱責にあうことになってしまうのである。(私から言わせれば、当たり前なのだが。お前が言うな!!!

・・・まあ、その後きっちり謝ってもらったんで、もういいんですけど。(いまだに思い出すとハラが立つことは確か。)