夜回り先生

夜回り先生のねがい

夜回り先生のねがい

定番の夜回り先生です。

この人の本を読むといつも胸が絞られるようなつらい思いをして号泣しながらも読み進む、という大変荒修行のような思いをするのですが、(エーとこのシリーズのみのお話として聞いてください。意外と著書が一杯あるみたいなのですが、つらいのでこのシリーズだけに絞って買っています)今回は違いました。この本だけは希望に満ち溢れています。

いくつかの章で彼自身に触れているのも他の本とは大きく違うところで、これらに書かれている出来事によって、彼の中で何かが大きくポジティブな方向に変わったんだろうなと感じられました。

んーでもって、すべての話を読んで、なんて人間て美しいのだろうかと。いちいちやっぱり号泣しながら読みました。すべての映画と写真が表現したいことについて合点がいった気がしました。一個人というのは世界に対して本当に小さいかもしれないが、この貴重な無垢な存在。痛めつけられても、希望を持って輝くことができる、どんなにもポジティブにい続けることができるというのは本当にすごいことですし、人間の底知れぬ強さ、美しさというものを感じます。また、それにひきかえ全てが満たされたときの人間の弱さについても思いをはせるばかりでした。中途半端に口につめこまれて半目を閉じながら日々の業務をこなす今の子供たちが、感情を失って狂っていくのも仕方がないのかもしれません。


前の本を読んでいるときから、しかし、世の中にはどうしてこんなにドラマチックな人が、それも各分野に少しずついるものなのだろうか、と、つらい思いで文章を通して彼を眺めていました。時として、壮絶で濃密な人生を、しかも悲劇に巻き込まれながら疾走していく人がいます。戦場のNPONGO、医者、教会など、生死を預かるところによくいるタイプですが、世の中の辛いことをすべて引き受けて生きているような人がいるのです。(歴史的に言えば、マザー・テレサガンジーナイチンゲールのような人々ですね。)彼らの人生を目の当たりにする人としてのこちら側は、その偉業に脅威とひれ伏すような敬意を感じると共に、彼らを生贄にしているような罪悪感にまでさいなまれるといったら言いすぎでしょうか。だけれど私はそのくらい辛い思いで常にこういう人たちを見てきました。

そして、今日ポンとその道理が解けたのです。
キーワードは、江原さんとブッダです。
水谷氏は日本中の子供たちを救おうと漂流し、その底なしさに疲れた様子さえ、この本の冒頭では見えます。それはまるで悟りを一通り伝授して疲れをみせるブッダのよう。(手塚治のマンガのままを言っています)
ブッダのマンガでも腑に落ちなかった点ですが、何故彼らはあたかも魂を削るような思いをして、彼らだけがそれをやらなくてはならないのでしょうか。

それは、魂の巡礼の為なのだと思いました。キム・ギドク監督でしたか、女子高生が、自分の友達から半ば巻き上げられるようにしてお金を奪われたヒトタチに、タダで寝てまわるといった映画がありましたが、(実際のところはみていませんが。だってわけがわからなかったから。でも今このトリックがわかった段階で、見てもいいなと思っています)まったくそれと同じようなものだと思いました。つまり、宿命とかいうものです。前世などでどんな悪いことをしたのか、もしくはもともとそういった運命を背負わされた魂なのかはわかりませんが、水谷さんがあのような苦行をするのは神様が与えたものなんだなと。与えられていて、決まったものなのですね。彼が自分で頑張ってそうしているわけではない。決まっている通りに事が運んでいるだけ。運命というともうすこしドラマを感じてしまいますが、魂に対して化せられた義務のようなものだと思います。前出の女子高生は淡々とそれをするそうですが、それは義務だからなのですね。そこには感情があるわけではない。やるべき使命だからです。あ。使命のほうがしっくり来るな。水谷さんの例でいえば、彼はこのポジティブネスを得る為に、様々な子供たちを助けようともがいてきたのかもしれません。子供たちの魂を消費してきたといえばひどい書き方になってしまいますが、その経験を消化してきたことは間違いなく、すべてはそれに至る為だったとも感じられなくはない。彼自身の補完。人生ってやっぱり補完ですか?(イヤーン)

そこではっきりと、私達の魂にはそれぞれ使命があって、それを果たす為に生まれてきているのだと悟りました。それで彼のような濃密に辛い現場にいる人たちと、そうでない人たちとの、置かれた環境やたどる道筋の違いが、くっきりと理解できたのです。
変な言い方をすると、だから私が水谷さんを心配して、無理して身をささげて身を滅ぼす必要はない。彼は彼の使命を全うしているだけだから。私も私の使命を全うすべく日々精進するのです。ということ。なんだか宗教めいてしまったけど、それが道理というものだとポンと理解してしまったのだからしょうがない。要はその、それぞれの人生だということです。それ以上はどうしようもない。使命がある人は、身を挺して彼を助けることになるでしょう。結婚と同じです。あ!この人だ、と思ったら結婚しますし、そういった人たちの話を聞いて、あ!これだ!と思ったらその人の人生で為すべきことなのでしょう。私達はその出会いを求めてあるいは生きているのかもしれませんし、その出会いによって使命を与えられ、それを果たす為に生きているのかもしれません。(そこらへんはよくわかりません)そういうこと。C'est la vieです。(違う)だけれど、私達が普段なにげなく、ああこうしようと思うもののうち、自然と実現に至り、人生の道筋を立てているようなことは、その流れに沿っているから成り立つのであって、それに抗うと大変な回り道や苦労をするだろうと思うのです。

(だからブッダは不必要な執着はいけないといっていたのだな。もう一つ謎が解けたぞ。
でもいまだにやはり、執着をしてもがき苦しむほうが、生きている人間としてはまっとうなように思えるんだナァ。それはまだ解けず。。だ。)

(物事をするとき、やるべきことを淡々とというか、確信的に、明確な意識でシンプルにやっていればなんの障害もありませんけれど、そこにいやだなぁとか、いろいろな感情が発生してしまうと、途端に進まなくなります。迷いで目が曇るからです。人生全体も同じなんだナァ〜ということです。そういうのは棄てるべきだということです)

(よく集中する、というけれど、頑張って意識をそこに集中する、というのは間違いなのですね、きっと。そういう迷いを棄てて淡々とやれば、自然と集中するものなのではないでしょうか。だから興味のあるものは自然と”集中”するのかもしれません)

(でもやっぱり、”人生は楽しまなくちゃ!”っていうのも大切なキーワードだと思うし、)


ということで、いまやっと江原さんのいっていること、ブッダが突然迷いが消えたことの理由がわかりました。
江原さんは魂をおこすためにきたのかなぁ。
私も魂のアンテナを研ぎ澄まして、使命を粛々とこなさなくちゃ。このところ迷いまくっていたけれど、その触れ幅を大幅に超えてスッキリしてしまいました。
そういえば昔もちょっと似たようなことを考えて一生懸命がんばっていたのに、すっかり曇って迷ってしまったんだナァ。やっぱり10代ってすごい。