ぐうたら。


ギアがはずれる日、というのがある。
一切のインスピレーションが枯渇し、ものをしまうことすらできないのだ。
だから一日じゅうダラダラする。
なにをたべたいか、どうすれば料理ができるかということの組み立てすら出来なくなるので、 朝納豆ご飯、昼塩気の足りないぺペロンチーノ、夜はふりかけごはん、などという乱暴な献立になる。が別に全然不快でもない。いくらかの量の食器洗いと、2週間もためた洗濯物をやり遂げて、そのあとはぱったりと体も頭も動かないのである。そんな状態でぐうたらとした時間を愉しむ。お風呂にはいってじわーっとするとか、風呂上りの一杯でキューっとなるとか、ベッドに横たわって幸せ〜〜〜とトロけたり、というのを存分に、誰にも邪魔されず、思いゆくまで味わうのである。
たいがいベッドにいる。静かなほうがいい。誰かがいると億劫である。まったくの沈黙、あるいはひくくつけたテレビをドア越しに聞くくらいで、あとは環境音を聞きながらベッドでぬくぬくとする。ひたすらボンヤリしたり、ファッション誌をめくったり、文芸誌をパラパラやったり。そんなときこそ、普段は読み飛ばしてしまう箇所にすばらしい発見をしたりするものだ。脱水症状になるといけないので、気がつく範囲で水分を摂取する。同じ理由で倒れてはいけないので、最低限炭水化物を取るのである。 テレビをつけたとおもったら、ちょっとみて、番組の最後までみない。なにかを成し遂げるとか、なにかにつきあうとか、そういことに一切の関心がなくなるのである。気がついたときにむっくりと起き上がり、ちょうどよいころあいのフィギュアスケートの試合をながめて、運が良かった、と嘆息しながら落雁を食べる。

端から見たら非常に破滅的だろうし、何か深刻なことがあって、ショック状態なのではと疑われても仕方が無い。
しかし本人からすれば、それは突然おとずれたバッテリー切れのときであり、ギアがはいらないのであり、すべてを休ませる日なのである。
普段はすこしややこしいパズルゲームなどがすきでも、そのときばかりは究極的に単純なゲームを数時間ずっとやり続けたりするのである。

*

私は意外にも、気ぃ使いぃである。

結婚していたとき、このような日を持つことは出来なかった。
もちろん元ダンナにも非があるのだが、やはり一日中一人きりで徹底的にダラダラする、ということの重要性を、自分でも軽んじていたように想う。
午前中だらだらしたから、もう大丈夫!とむりやり、動かないギアを一生懸命動かしてしまうのである。
そのうち、バッテリー自体が疲弊して、いくら充電しても充電されないようになってしまう。
そうすると、こうした帳尻あわせをきちんとしてこなかったツケがまわり、充電できないバッテリーのまま、うごけない体になってしまうのである。

****


離婚するとき、年上の人々は、私に対して、”がんばりすぎたんじゃないの?”と声をかけた。

それはたぶん、離婚という事実に対して、リラックスしなよ、と勇気付けてくれる意味でかけてくれた言葉なのかもしれない、と今では思う。
あるいは、がんばりすぎちゃって、かわいそうに、とやさしく哀れんでくれる言葉だったのかもしれない。あるいは、がんばりすぎちゃったんだね、とねぎらってくれる言葉だったのかもしれない。

でも当時は私はひどいうつ状態(それでもピーク時よりはかなり回復していたのだが、やはり心の根幹部分の傷は癒えておらず、特に傷つけられること、責められることにたいして非常に神経質かつ、受け入れがたいほどの苦痛を感じていた。それはどちらかというと、結婚生活によるものというよりは、元上司の言われもなく人を責め続けるという理不尽さからもたらされた部分だったかもしれない。)だったので、人々のそういう、いわゆる”何気ない元気付けの(つもりの)言葉”でさえ、責められているようにしか思えなかった。

わたしががんばりすぎたからだめになったんじゃないの、としか聞こえなかったのだ。

(実際、そいういう意味も多分に含まれた言葉ではあるかと思うのだが。。。そうした意味が含まれていることさえ、わたしには耐え難いことだった。)

結婚した自分としての在り方、というのは、日々試行錯誤で、一般的に言われている家事と仕事の両立にしてもそうだし、両家の実家に対する立ち居振る舞いなど、それまで仕事や人間としてはある程度経験を積んだつもりが、とたんに赤ん坊のようにまったく経験も知識も無い、ゆえに自信の無い立場を与えられ、仕事を与えられたようなものであった。そういう状態で相手の助力を得られないというのは、まさに泥沼で犬掻きをするようなもので、途方もなく疲労感だけが募り、達成感のかけらも無い、ただ浮いているだけで精一杯の、息苦しいものであった。

がんばることの何が悪い、
あまりのこの言葉の乱暴さに耐えかねて、一人で悶々と悩んでいたとき、私はこうまで考えた。
二人の他人が暮らすのである。
もちろん元ダンナが一切の努力をしなかったにせよ、そうであればよりいっそう、がんばらねば一緒になど住めない。
二人のテンポだとか、生活形態というものは成し得ない、と思う。

別にわたしだってがむしゃらにがんばりたかったわけではない。
理想的には自然にそういったものができたらよかったと思う。
だけれど、全面的によりかかってくる元ダンナの重さを必死で支えながら、二人分の生活が破綻しないように保つのは、並大抵の努力では成り立たないのだ。
がんばらなかったら、なんだったというのか。
もっとはやくに逃げ出せばよかったのだろうか。
それとも、二人ともかびまみれになってでもいいから、てこでも動かなければよかったのだろうか。そんな状態はこっちがごめんである。
そんな苦行を経なければ築かれないものなのなら、わたしはさっさと下りる。そうして荒廃した生活を送るほうが、よほど私にとっては苦痛である。


結婚というのは、幸せのイメージに対してお互いが努力するという義務なのである。
それを片方が果たさなければ、結婚という状態は破綻する。それだけのことだ。

元ダンナはすでに、結婚と新居という二つの2大ライフイベントによって、燃え尽きたように呆けてしまっていたので、
しまいには、本人が、離婚直前に、
おまえががんばりすぎた
みたいなことを言ってしまい、後々まで私の苛烈な叱責にあうことになってしまうのである。(私から言わせれば、当たり前なのだが。お前が言うな!!!

・・・まあ、その後きっちり謝ってもらったんで、もういいんですけど。(いまだに思い出すとハラが立つことは確か。)

なぜキャバ嬢が小学生女子の人気職業になるのか

至ってわかりやすいテーマだと思うが、私の身の回りではよく”現代の謎”あるいは”世の中の破綻を象徴するデキゴト”として語られることが多いので、一応考えをめぐらせて見ようかと思う。

まず、では、単刀直入に、なぜキャバ嬢が人気職種たりえたか、というナゾ?をわかりやすいポイントで解説。

・カワイイ
見た目がかわゆい。一目瞭然である。

・お金という”力”を持っている

ほかの職種で、若さと美貌を兼ね備えた状態で、自活・育児できる、またはそれを上回って男性と対等にわたりあえるほどの”お金”という力を持つ職業は、ほぼない。一番一般的でわかりやすい職業はキャバ嬢なのである。

おまけに世は不況で、まっとうな就職をしても、30台前半までのっからないと、軒並み”満足な”レベルまで稼ぐことはできない。(そうでない職業もたくさんある。お医者さんでさえそうなのである。)そうした20代の疲労感、貧乏くささが世の中に伝播したのである。小学生にもわかるはなしである。

一番活性化している市場はどこなのか、ということである。

そういう意味では、彼らの将来を選択する際における市場に対する嗅覚というのは至って正しい。
われわれの時代でさえ、そういったものは発揮することを要請されなかったために、全く無かった。
ソニーミュージックに勤めるのと、トヨタにいくのと、メリル・リンチに行くのは、かわらなかった。
(まあ、われわれの世代においては、大きな企業でもつぶれるので、どこにいってもつぶれるか否かは運試し。→ゆえに、諦めが肝心。というスピリットなので、チョット違うのであるが)

昔から言われる、女の子の3大憧れ職業というのは、看護師、フライトアテンダント、ケーキ屋さん、お花屋さん、といったところがわかりやすいだろうか。(うち2職種の名称が変わっているのが興味深い。看護婦、スチュアーデスだった)

しかしながら、看護師は世に言う医療崩壊で、過労気味の医師を下支えする非常にキツい職業である。かつて女性が公然と社会進出できる数少ない機会であった事から、伝説的にトップにランクインしていたものの、その仕事のハードさに加え、世の中でワークライフバランスというものが提唱されつつある中、医療現場は完全にそうした現代の職業倫理から取り残されつつある。(夜勤などで24時間体制を支えなくてはならない)おまけに病院には、カッコイイ男の子が骨折で、とか、薄幸の病弱な若者が。。。とかいうロマンスが描かれがちで在ったが、そうした設定そのものが非常に古臭く、乙女心をもはや刺激しない。のみならず、病院という受け皿には現在、暇をもてあました、あるいは家族がデイケアがわりにおしつけた大量の老人がおしよせ、老人ケアがかつての割合よりも非常に高くなってしまったことがさらなるロマンチックの低下を招いていると言えるのではないか。(昔は自宅で老衰で亡くなるケースが多かったように思うが、今は自宅で死を迎えることを忌み嫌う風向きが強い。あるいは、その死に際してなにをすべきかのノウハウが継承されておらず、それを病院に求める向きも多いのではないかと考えられる。具体的な数字はないが、病院で亡くなる老人がかなり増えているのではないかと思う。)

次に、フライトアテンダントである。
フライトアテンダントは、ちょうど私たちの上の世代が就職する際から、雇用凍結が継続されている。この市場は女性の比率が圧倒的に高く、仕事も細分化しやすい為、出産・育児後の職場復帰というお題目につけこんで、コストカットの面から、主に経験者を対象に、パートタイマー制を導入したのである。今でも新卒でスッチーになるのは非常に難しい。むしろ男性がきっちり英語を覚えて、欧米エアラインに応募するほうが合格率が高いのではないかとさえ思われる。というわけで、フライトアテンダントは、就職市場としては、自給自足的に閉鎖してしまった為に、そもそも選択肢にあらわれない。あらわれないことが正しい形とも言える。

花屋、ケーキ屋にいたっては、ただお花やらケーキやらを売っていてはまったく立ち行かない時代である。小売業にはなんでもアイデアの投入が必要とされており、ケーキ屋などについては海外から、もしくは海外で修行していたパティシエという黒船がやってきたことと、少し前までのプチ好景気に後押しされたブランド志向により、まったく違う土俵の人々と競争を強いられる事態となった。バレンタインチョコが一粒x十円だった時代が、わずか15年で300円以上に値上がりしているのである。(x十円のチョコは今年あたりから復活しそうな向きであるが)クリスマスケーキなども、毎年当日に駆け込みで売りさばく様子が痛々しい。ミスタードーナツのうらで、消費期限切れで大量に捨てられるドーナツを見たことがあるだろうか。それに対して社会はなんと言ったか。”浮浪者の人にあげればいいのに。”ミスタードーナツ営利団体であって、非営利団体ではない。浮浪者の人に上げるためにドーナツをつくっているわけではないのである。彼らに言わせれば、そんなこと言う前に、買え!!てなことである。お店は正常に売り上げを上げて利益を得ねばならない。そしてバイト代や給料を出さなくてはならない。
とにかくクリスピークリームドーナツは行列なのにミスタードナツの裏には消費期限切れのドーナツが山積みにされるのである。移ろいやすい消費者の心をつかみ続けるのは容易なことではない。そのお仕事はまったく単純ではないし、景気にあおられお給料はとても低く、伸びる店舗の営業時間につられて、労働時間は長くなる傾向にあるのである。そんな職業に夢を見出せるだろうか?小売業に夢を見出すのはもはやコンサルで小金を稼いだおっちゃんくらいのものである。センスのよい人であればそんなビジネスもあたるであろう。花屋であれば珍しい花を売る、コストをかけてもラッピングは高いものを使う。ケーキ屋であれば天然自然酵母やら、直輸入のカカオを使ったチョコレートなんちゃらという工夫が必要なのである。いま小売業に夢を見れるのはビジネスに長けた人であって、小学生女子ではない。そして店員の職業は苦しい家計をどうにかしなければならぬ主婦や派遣をやめたオネーちゃんが食い扶持を稼ぐためにありつく職なのである。

人々がせめて小学生女子にはホンワカとした夢をもってほしいというのはわかる。
そしてそれがキャバ嬢というのはいかにも見た目に惑わされているのではないかと馬鹿娘をいなすようにしかりたくなる気持ちもわかる。
しかしこのような状況をもってしても、こうした職業に夢を見よというのは無理があるのではないか。そして小学生女子はみなさんが考えるよりももっと賢いということではないか。幼稚園女子はいまだにお嫁さん!とかいってくれるが、なんだかそれも”今の時代は職がないから”とか、30代女性の必死な婚活、という世相を反映しているのではないかと恐くなってしまうのである。

ゆとり教育的な子供たちについて

http://d.hatena.ne.jp/idiotape/20071010/1192003209

よくいわれることだが、最近の生徒は座らないとか、授業を聞かないとか、そういうこと。

そしてその状況をみて、こいつらは狂っていると大人が驚愕すること。

だけどその大人たちは、まったく記憶を喪失しているだけで、じゃあ何故自分たちが授業中席についておとなしく座っていたかといえば、それは寝るためでもあり、先生に殴られるのが怖いこともあり、目立ってはいけないという日本人特有の精神に拠るものでもあり、仕方なしに座っていたのは間違いないのである。

今も昔も、授業というものの尊さと意味を理解して、喜び勇んで座るなんて生徒は、高校までの間には、とても少ないはずだ。だいたい、クラス中の生徒が、先生、数学楽しい、もっと教えて、などと瞳をきらきらさせているという状況のほうが、おかしい。何か催眠術でも使っていると考えたほうが妥当である。

真面目に授業を聞く、そんな真面目さを忌み嫌うのも、ティーンエイジャー特有の照れくささのようなものがあり、公然と席を立つことがいけないということになっていなければ、席をたつだろうし、真面目でないと同世代に対してアピールしなければ、格好悪いと感じる子もあるだろう。昔から教科書をたてていれば寝ててもばれなかったとか、そういった類の小さな武勇伝は語られたものだし、そいつらが寝ないで歩いて立っていたとすれば、別に当時と大して様子は変わらないのではないだろうか。ただし、公然と席を立ってよい雰囲気が漂うことによって、昔は寝るなんて大胆なことは、したくてもできない、と言っていたような、”羊の群れ”層が、授業を聞かないのがフツウという環境であれば、そちらにシフトしてしまうので、学力も低下するし混沌は極まる。(だって、羊の群れが意外と勉強をしているから、授業中寝ていたやつはあせって追いつこうと努力したのだもの。)

では何が変わったのかというと、恐らくヒロミチお兄さんの言うとおり、一番変わったのは”親”で、その親によって”学校”が神経質になり、しかし依然として組織としての未熟さを露呈しているということだと思う。学校が変わらなければ、現場の教師に負担がかかり続けるのは当たり前の話だ。

私は学級崩壊の世代に限りなく近く、自己主張の強い(強すぎる?)コギャル世代なので、いわゆる生徒たちが学校に牙を向いた最も最近の世代といえると思う。集団で卒業式をボイコットしたり、授業をボイコットしたりしていた、あの世代だ。

あのとき我々の世代が言いたかったのは、教師は自己満足で授業をしているに過ぎず、生徒のことを本当にはみていない。学校は両親のことを見ているのであって、生徒の事は見ていない。といったことではなかったかなぁ。とおぼろげに考える。
また、度重なる教育制度の変更や指導要綱の変更で、先生たちも右往左往しており、思わず説明してしまった内容について、今年はやらないけど去年まではこういうのもやっていたよ、などとそうしたネタに触れるにつけ、”それは何故除外されたのか?”という解決されることの無い疑問を、センセイが解決することなしに生徒にひけらかし、疑問に思うことそのものを、自分で考えることを放棄してこちらに放り投げることについて、ひどくいらいらしたものである。(所詮お上の命令にはさからえない、ということらしい。)誰が何の権限があってそんなことをしているのか?

少し年が上下に離れた同世代の人たちと話せば、その教育内容の違いは明らかで、ただ単に実験のように、もしくは気分転換でくるくると変更が加えられ、それにもてあそばれているような気がしていた。そしてそんな”遊び”にうんざりしていた。教科書に書いてあることも度重なる編集によって間違いが続出しており、本当なのか嘘なのかわからないことが書いてあった、というのが感想で、基本情報としては良いが勉強したという気になるような内容ではなかったと思う。指導要綱の変更によってクラスの編成なども変わるとか、そういった話があったので、一度先生につかみかかりにいったことがあったが、担任の先生は黙ってうつむき、職員室は静まり、でも化学の先生が職員室の外で、過渡期だから。。。。と説明し、本当にすまないと思っている、といって謝ってくれた。誰も子供のいうことには真剣に耳を貸さない。学校なのに。この化学の先生みたいに特殊な人だけが、真面目に生徒の話を聞いて、この記事の先生と同じように、弱体化された学校という組織との間に板ばさみになり、心を痛めてくれたのだ。

教育とは何か。
一部の教師だけにこの問いを追わせるのではなく、学校という組織全体がこの哲学を追求する集団でなくてはならない。それ以外の集団は、学校とは呼べないのだ。子供たちは真剣な先生の話はきちんと聞くだろう。それは動物的な本能と、それに教育される喜びを味わいたいからだ。学校とはそのような享楽を提供する場ではなかったか。いつからサラリーマンのようにのっぺりとした顔をした教師が淡々とノルマをこなすように教壇に立ち、衛星中継やDVDの塾講師に負けてしまうような授業をするだけでお金がもらえるようになったのだ。そしていつから学校は、親の顔色さえ伺っていえれば黙ってお金が手に入る固定金額収入ビジネスと成り下がったのだ。

子供たちがおかしいのではない。夏目漱石先生の時代に万人に対する平等な教育制度が整備されて以来、進化することもなく、ただ形骸化し腐敗しきった教育現場というものがおかしく、それとの板ばさみになっている教師から今、悲鳴が上がっているのだ。

日々つらつら

?りんじー・ろーはんやパリスヒルトンのニュースをみるにつけ、世界はイマイチな空気に満ちていると感じる。どうにかして抜け出さなくては。?いまは友人も私も、まるきりさなぎの時期で、だからこそ色々なものに目を向け、吸収し、研究して深めたりすべき時なのである。さなぎの時というのは、形が定まらないが故のつらさと、行為そのものではなく、我慢強くその準備をしなければならないという性格がある。蝶になったときにはそのつらさも忘れ、さなぎの時期にやり残したことを悔やみ、苦しい時を過ごすさなぎの時期の人をみて、羽ばたきながら羨みの言葉をかけたりしてしまうものである。?日々鍛錬と修練を積み重ねなくてはならない、というルールは、このような精神サイクルが固定されているほうが、楽だからに他ならない。日常的に自己を省みて改善することに慣れていれば、自分のどんな失敗も受け止め、よくするということがすんなりできるものである。ところがこういった癖を持たない人は、自分の失敗を発見する事も遅れ、その咀嚼も、たどたどしく時間がかかったり、不必要に落ち込んでしまったりするものだ。
?かと言って修行者のそれのような精神サイクルを保持し続けることの、面白みのなさやそれによって手に入れる、他者に通じないスーパーポジティブネスを嫌うがあまり、容易にそちらへ進めないのも事実である。
?シンプルに考えよ。まずはそこからはじめるべきかと、ミニマルデザインの気持ちよい家電などを眺めながら、ぼんやりと考えた。

夜回り先生

夜回り先生のねがい

夜回り先生のねがい

定番の夜回り先生です。

この人の本を読むといつも胸が絞られるようなつらい思いをして号泣しながらも読み進む、という大変荒修行のような思いをするのですが、(エーとこのシリーズのみのお話として聞いてください。意外と著書が一杯あるみたいなのですが、つらいのでこのシリーズだけに絞って買っています)今回は違いました。この本だけは希望に満ち溢れています。

いくつかの章で彼自身に触れているのも他の本とは大きく違うところで、これらに書かれている出来事によって、彼の中で何かが大きくポジティブな方向に変わったんだろうなと感じられました。

んーでもって、すべての話を読んで、なんて人間て美しいのだろうかと。いちいちやっぱり号泣しながら読みました。すべての映画と写真が表現したいことについて合点がいった気がしました。一個人というのは世界に対して本当に小さいかもしれないが、この貴重な無垢な存在。痛めつけられても、希望を持って輝くことができる、どんなにもポジティブにい続けることができるというのは本当にすごいことですし、人間の底知れぬ強さ、美しさというものを感じます。また、それにひきかえ全てが満たされたときの人間の弱さについても思いをはせるばかりでした。中途半端に口につめこまれて半目を閉じながら日々の業務をこなす今の子供たちが、感情を失って狂っていくのも仕方がないのかもしれません。


前の本を読んでいるときから、しかし、世の中にはどうしてこんなにドラマチックな人が、それも各分野に少しずついるものなのだろうか、と、つらい思いで文章を通して彼を眺めていました。時として、壮絶で濃密な人生を、しかも悲劇に巻き込まれながら疾走していく人がいます。戦場のNPONGO、医者、教会など、生死を預かるところによくいるタイプですが、世の中の辛いことをすべて引き受けて生きているような人がいるのです。(歴史的に言えば、マザー・テレサガンジーナイチンゲールのような人々ですね。)彼らの人生を目の当たりにする人としてのこちら側は、その偉業に脅威とひれ伏すような敬意を感じると共に、彼らを生贄にしているような罪悪感にまでさいなまれるといったら言いすぎでしょうか。だけれど私はそのくらい辛い思いで常にこういう人たちを見てきました。

そして、今日ポンとその道理が解けたのです。
キーワードは、江原さんとブッダです。
水谷氏は日本中の子供たちを救おうと漂流し、その底なしさに疲れた様子さえ、この本の冒頭では見えます。それはまるで悟りを一通り伝授して疲れをみせるブッダのよう。(手塚治のマンガのままを言っています)
ブッダのマンガでも腑に落ちなかった点ですが、何故彼らはあたかも魂を削るような思いをして、彼らだけがそれをやらなくてはならないのでしょうか。

それは、魂の巡礼の為なのだと思いました。キム・ギドク監督でしたか、女子高生が、自分の友達から半ば巻き上げられるようにしてお金を奪われたヒトタチに、タダで寝てまわるといった映画がありましたが、(実際のところはみていませんが。だってわけがわからなかったから。でも今このトリックがわかった段階で、見てもいいなと思っています)まったくそれと同じようなものだと思いました。つまり、宿命とかいうものです。前世などでどんな悪いことをしたのか、もしくはもともとそういった運命を背負わされた魂なのかはわかりませんが、水谷さんがあのような苦行をするのは神様が与えたものなんだなと。与えられていて、決まったものなのですね。彼が自分で頑張ってそうしているわけではない。決まっている通りに事が運んでいるだけ。運命というともうすこしドラマを感じてしまいますが、魂に対して化せられた義務のようなものだと思います。前出の女子高生は淡々とそれをするそうですが、それは義務だからなのですね。そこには感情があるわけではない。やるべき使命だからです。あ。使命のほうがしっくり来るな。水谷さんの例でいえば、彼はこのポジティブネスを得る為に、様々な子供たちを助けようともがいてきたのかもしれません。子供たちの魂を消費してきたといえばひどい書き方になってしまいますが、その経験を消化してきたことは間違いなく、すべてはそれに至る為だったとも感じられなくはない。彼自身の補完。人生ってやっぱり補完ですか?(イヤーン)

そこではっきりと、私達の魂にはそれぞれ使命があって、それを果たす為に生まれてきているのだと悟りました。それで彼のような濃密に辛い現場にいる人たちと、そうでない人たちとの、置かれた環境やたどる道筋の違いが、くっきりと理解できたのです。
変な言い方をすると、だから私が水谷さんを心配して、無理して身をささげて身を滅ぼす必要はない。彼は彼の使命を全うしているだけだから。私も私の使命を全うすべく日々精進するのです。ということ。なんだか宗教めいてしまったけど、それが道理というものだとポンと理解してしまったのだからしょうがない。要はその、それぞれの人生だということです。それ以上はどうしようもない。使命がある人は、身を挺して彼を助けることになるでしょう。結婚と同じです。あ!この人だ、と思ったら結婚しますし、そういった人たちの話を聞いて、あ!これだ!と思ったらその人の人生で為すべきことなのでしょう。私達はその出会いを求めてあるいは生きているのかもしれませんし、その出会いによって使命を与えられ、それを果たす為に生きているのかもしれません。(そこらへんはよくわかりません)そういうこと。C'est la vieです。(違う)だけれど、私達が普段なにげなく、ああこうしようと思うもののうち、自然と実現に至り、人生の道筋を立てているようなことは、その流れに沿っているから成り立つのであって、それに抗うと大変な回り道や苦労をするだろうと思うのです。

(だからブッダは不必要な執着はいけないといっていたのだな。もう一つ謎が解けたぞ。
でもいまだにやはり、執着をしてもがき苦しむほうが、生きている人間としてはまっとうなように思えるんだナァ。それはまだ解けず。。だ。)

(物事をするとき、やるべきことを淡々とというか、確信的に、明確な意識でシンプルにやっていればなんの障害もありませんけれど、そこにいやだなぁとか、いろいろな感情が発生してしまうと、途端に進まなくなります。迷いで目が曇るからです。人生全体も同じなんだナァ〜ということです。そういうのは棄てるべきだということです)

(よく集中する、というけれど、頑張って意識をそこに集中する、というのは間違いなのですね、きっと。そういう迷いを棄てて淡々とやれば、自然と集中するものなのではないでしょうか。だから興味のあるものは自然と”集中”するのかもしれません)

(でもやっぱり、”人生は楽しまなくちゃ!”っていうのも大切なキーワードだと思うし、)


ということで、いまやっと江原さんのいっていること、ブッダが突然迷いが消えたことの理由がわかりました。
江原さんは魂をおこすためにきたのかなぁ。
私も魂のアンテナを研ぎ澄まして、使命を粛々とこなさなくちゃ。このところ迷いまくっていたけれど、その触れ幅を大幅に超えてスッキリしてしまいました。
そういえば昔もちょっと似たようなことを考えて一生懸命がんばっていたのに、すっかり曇って迷ってしまったんだナァ。やっぱり10代ってすごい。

ポレポレ

この間ポレポレ(注:ポレポレ東中野)でびゅーを果たしてきましたよ。
「聴かれた女」を見てきました。http://d.hatena.ne.jp/sandaime-shumei/20070218
評価は”ちょっとDVDほしいかも。。。”ってくらい好き☆

・前半の妄想の中でのさつきの部屋がむちゃくちゃラブリーなのに対し、現実はアジアンテイストで意外とさっぱり。というギャップが、男の子の妄想具合を知るのにとても面白い対比だった。妄想の中のお部屋のレイアウトはチープキュートで超カワイイ。あのインテリアを見る為だけでもちょっとDVDほしいかもと思うくらい、やりすぎなくらいやっていて良かったw
・ご存知蒼井そらチャンが主演なわけだけれども、AVよりも嬢王よりもこの作品が一番かわいい!!!!と思った。こういう若い女の子、普通にいそうだ〜!っていう演技もよかった。特に最後つなぎをばばーんと脱いで放り投げるところの神々しさ。女神様〜!!!女の子が見てもカワイイっす。
・最後のくだりで壁の向こう側を意識しながら”聴かせる”行動を取るさつき。このシーンは極上。ここのくだりで、あたしは今もんのすごい傑作をみているのでは。。。とどきどきしてしまった。女の子が色っぽくなる瞬間を如実にあらわしています。そしてそういうことをしがちです。女の子は。w あの思考回路は大うなずき&拍手。

主役の男の子も、盗聴しちゃうダメさ加減と、さつきを助けずにはいられない”良いオニイチャン”具合がうまく同居していて、すげー好感もてました。エッチからバイトまで、フツーの女の子の生活をヘンに拡大解釈したり、捻じ曲げることなく淡々ともしすぎずうまーく描けてるのがすごい良かった。ポレポレデビューにして大ヒットな映画でした。